東大卒無職が働かずに生きるブログ

サラリーマンに向いてなさすぎる東大卒の考えたことなど

何もない日

今日は久しぶりに何もない一日だった。

誰とも会わず、誰とも話さず。

本来今は療養中だから、こういう日は必要なのだと思う。

実際、今日一日でまたメンタルが回復していったような感覚がある。

 

今日やったことといえば、院試の願書を書き、微積を勉強した。私は工学系を受験する予定なのだが、使っている参考書が理学部よりのようで困った。積分偏微分が順番入れ替え可能かどうかを延々と議論しているのだが、工学系の先生はあんまそこ気にしてないような気がする。

 

さて、いつも勉強している図書館に、フランシス・ベーコン(画家のほう)に関する本があったので、読んでみた。

厳格な家庭に育ちながらも、病弱であったベーコンは両親の理想の子供ではなく、しばしば虐待を受けて育った。おまけにゲイであったベーコンは、母親の下着をつけているところを父親に見つかり、家をたたき出されてしまう。以降ゲイがあつまる街で退廃の日々を送ることになる。

一時期ベーコンはヒモのような存在になっていたようである(もちろん相手も男だ)。いわゆる「まとも」から離れまくったベーコンの生きざまを見て、「普通の」サラリーマンとして生きていくことができないのであろう自分を重ねた。高校の時にはベーコンの作品に無性に惹かれたのだが、当時から「普通」とは違う自分の中の何かが目覚めていたのかもしれない。いずれにせよ、私はベーコンの生き方をうらやましいと思った。いや私はゲイではないので、あれなのだが。社会の規律とは正反対のところにいながら、おまけに芸術の正規の教育をうけることすらなく、最終的には自分の才能に依って

生きることができたベーコン。もはや彼は、自分が社会の「普通」とかけ離れていることになど一切葛藤していないように見える。

 

私は最近将来の不安というものをほんのりと感じ始めている。それは金銭的な問題というよりも、社会という文脈のなかで自分がどう位置づけられていくのか、という不安である。

夕方の住宅街を一人歩いていると、さまざまなにおいに出会う。それはどこかの家の夕飯のカレーだったり、洗剤のようなにおいだったりする。そんな時、私は決まって幸せだった子供時代を思い出す。疲れ果てるまで友達と遊び終えた帰路は、なんの悩みもなかった。いつからだろう、「自分」と「他人」が相対していると、ほんのりと緊張が走る。それははっきりと自覚されることもあれば、無意識化でそうなることもある。ストレス。

どうありたいとか、どうあるべきか、とか考えるまでもなく、ただ私は私だった。それが当たり前で、例えば、毎日朝早く起きて学校に行かなければならないことも、当然苦痛に感じるときもあるが、それは決定的な懐疑の対象にはなりえなかった。知識を得る感動や、心地よい芸術や性の悦びも知らない代わりに、ただ私は私であった。あるいは私は何物でもなかった。救われていたことは確かだ。

 

いや、昔を美化しているだけなのかもしれない。私はほかの子に比べてかなり早くから、「自分」という呪い(あるいは病)に侵されていた気がする。

 

あ~あ、あの頃にもどりたいなあ(こう書いているこの瞬間すら、これを書いている自分自身にほんのりとした不安感を持っている)